#18:新病院初年度にあたって
この文章は平成18年10月に発行された友愛記念病院誌の巻頭言に書いた文章です。
新病院開院から患者さんが急増し、職員は多忙を極め「悲鳴」も耳に入っていましたが、「地域に頼りにされる、いい病院として存続するために、みんながんばろうよ。」という気持ちで書いた文章です。
新病院初年度にあたって
本年2月2日無事に新病院が開院しました。
それに先立つ1月21日、22日の両日にかけて開催した新病院竣工記念イベントには、大雪にもかかわらずたくさんの方々が来てくださいました。特に22日の一般内覧会には4,000~5,000人という、予想をはるかに上回る大勢の地域住民の方々が来場されました。前日の夜準備が終了し皆で夜遅く夕食に行った折り、建築会社の人達もイベント会社の人達も「1,000人以上来たら大成功」と言っていましたので、内覧会当日、来場者が4,000人を越えた時には驚愕の声が上がりました。病院開院の内覧会来場者は普通500~1,000人だそうで、これだけ大勢の方々が来場した経験は誰にもなかったそうです。「地域住民の方々が友愛記念病院に寄せる期待」の大きさを強く感じました。その期待を裏切らないようにしたいと思いました。
さて、私が病院長になってもう4年半以上経ちましたが、病院長になって以来「“医療経営”とは何だ?」といつも自問自答しています。世間一般には「国の医療政策、医療制度の行き先をうまく先読みし、金銭的に“実入り”のよい方向に自分の病院を導くこと」と考えている病院長の先生がほとんどだと思いますが、病院長という病院経営トップの役目は「あまり患者さんのためにはならない方向に医療制度が変わっていくという、最近の日本の社会の中にあり、大きな“制約”を受けながらも、自分の病院だけは何とか患者さんのためになる医療を提供できるように、一生懸命知恵を絞り、自らも身を粉にして働くこと」ではないかと最近思うようになりました。
急性期病院(従来からの普通の“病院”)を続けるためには、在院日数短縮、紹介患者中心の外来診療、病診連携、クリティカルパス、DPC、・・・等々、様々なことが世間では言われています。どれもある意味では意義のあることかもしれませんが、しかし、医療の根っこにあるべき思想は「患者さんのためにはどうすることが一番大切か」です。「医療費抑制」しか頭にないお役人達が目まぐるしく打ち出してくる医療制度の改正に振り回されて医療にとって本当に大切なものを忘れないようにしたいと思います。
鎌田實先生が開院記念の特別講演の中でもおっしゃっていたように、友愛記念病院も「たとえ病気が完全に治らなくても、残された命が短くても、その人がその人らしく生きることを支える医療」「何があっても、放り出したり見放したりしない医療」のできる病院でありたいと思います。
新病院は「地域に頼りにされる、あたたかな病院」を目指そうと思っています。いわゆる“一流病院”でよくやっているような「うちではもうやれることがないから、出て行ってください。」などということを患者さんやご家族に平気で言うような病院にはならないようにしましょう。力不足でどうしても自分の病院で診療できない時は、安心して診療を受けることができる次の医療施設を見つけられるまで、責任を持って患者さんやご家族を支えましょう。
これからも日本では「あまり患者さんのためにはならない医療制度の改正」が繰り返されるものと思いますが、こうした制度改正に過剰に反応し右往左往することなく、そのような制度さえも逆手にとって「患者さんのためになる医療」を提供できる病院にしましょう。それが職員皆さんの医療従事者としての“夢”だと私は思っています。
ただし、今の日本の医療制度の中で「患者さんのためになる医療」を提供しながら病院を存続させるために医療従事者が受け入れなければならない唯一の試練に「忙しさ」という問題があります。諸外国と比較して日本における医療従事者の労働環境は劣悪ですが、この点はほとんど議論もされないし、今のところ制度的に改善しようという動きもなく、全て個々の医療機関の責任として片づけられています。個々の医療機関の努力で解決できる問題ではないにもかかわらず。
「なんともひどい医療制度」を職員の「忙しさ」でカバーしなければ、心ある病院としては生き残れないのが今の日本の社会です。ですから、「忙しさ」を“笑い飛ばして”乗り越えられる病院だけが今のところ、社会から認められ、しぶとく生き延びることができます。私は、そうした病院で働く職員がいずれ日の目を見る時がくると信じています。今の日本の医療制度では「暇な」病院は必ずつぶれます。今のところ、「暇でつぶれる」より「忙しいけど生き延びる」病院であった方がよいと私は思っています。
「地域に頼りにされる、あたたかい病院」であるために、我々医療従事者が大手を振って自分たちの権利を主張できる社会になるまでは、「忙しさ」は常に我々につきまとうのではないでしょうか。